お餅やおせちなど、普段食べる機会の少ない正月料理で弱ってしまった胃腸を回復させるために、1月7日に七草粥を食べる習慣が残っています。この七草粥に使われるのが、「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」で、これを春の七草と呼びます。1月は冬真っ只中ですから、春の七草と言われてもピンと来ませんが、雪の間から芽を出した若菜が、春を感じさせたのかもしれませんね。
これに対し、秋の七草というものもあります。「おみなえし、おばな、ききょう、なでしこ、うじばかま、くず、はぎ」です。しかし、これを料理して食べるというのを聞いたことはありませんが、秋の七草はどれも、薬草としての効果がある草花のようです。薬草というくらいですから、ちょっと苦みがある草花なのでしょうが、体には良さそうですね。
さて、聖書の世界に目を向けて見ましょう。
旧約聖書の出エジプト記12章3~8節に、エジプトでの奴隷生活からの解放前夜に、神がイスラエルの民たちに命じたことばが記されています。
「それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。(中略)あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。」
この命令を今でもユダヤ人たちは守り、エジプトでの奴隷生活から解放されたことをお祝いする過越しの祭りの時に、種なしパンと一緒に苦菜を食べています。それは、エジプトを脱出した時の苦難、そしてその後、40年間荒野の旅を続けた時の苦難を忘れないようにするためです。荒野の放浪生活では完全栄養食のマナが与えられたので、七草粥のような健康のための青物野菜補給は必要ありませんでした。ですから、苦菜は健康維持のためではなく、荒野の生活の苦しみを体で味わい、忘れないようにするためのものだったのです。
毎日、美味しいご飯を食べられるというのはうれしいことですが、時に、お金がなくて苦労していた時のことを思い出すために、粗食を戴くというのも、私たちの生活には必要なことなのかもしれません。
聖書は、「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(新約聖書・へブル人への手紙4章15節)と語っています。イエスさまは、私たちが経験する苦しみに、いや、それ以上の苦しみに遭ってくださり、私たちの弱さを十二分に知ってくださいました。私たちも、苦しみの経験を通して、誰かの痛みや悲しみを感じ取れるような人になれたらうれしいですね。
聖書のことば 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(新約聖書・へブル人への手紙4章15節)