2023年5月 今月の心のビタミン

海外旅行に出かけると、日本とのいろいろな違いに気づかされます。

その一つが包装の仕方です。日本だと、どんなお店に入っても、どんな小さな買い物をしても、テキパキ包装し、サッと出して「ありがとうございます」と、きれいに包んで、あっという間に仕上げてくれます。芸術的と言ってもいいほど丁寧に包装された商品を手にすることができますよね。

ところが、何度か出かけたことのあるドイツでは違っています。高級なものを買っても、古新聞でクルクル包んで「ダンケシェーン」。味気も愛想もない応対です。

しかし、どっちが本当に良いことなのか。日本で、お土産屋さんでお煎餅を買えば、1枚1枚がパックされ、しかもその1枚1枚に乾燥剤が入っています。さらに、その1枚1枚を大きな袋に入れ、缶に入れ、さらにきれいな紙で包装し、最後にはのし袋。どう考えてもやり過ぎな気がします。

資源の浪費をなくそう、リサイクルをしよう、などと叫ばれ、最近ではSDGsということばも飛び交っています。レジ袋が有料化され、マイバッグを持参する人も増えました。しかし、過剰包装はなかなかなくなりません。理由は簡単です。その方が見栄えが良くて人気があり、よく売れるからです。

しかし、商品の過剰包装だけではなく、私たちの生活やあなた自身に目を向けてみたらどうでしょうか。服装、車、家、学歴、就職から結婚に至るまで、立派に見えるかどうかと無理してはいないでしょうか。もっとストレートな言い方をするなら、見栄を張ってはいないでしょうか。

そして、いつの間にか、見える部分がどれだけ立派であるかが人の豊かさの基準のように錯覚し、気がつくと、まるで人生の過剰包装となり果ててしまう危険がないとは言えません。過剰包装追放運動は、大げさに言うと、生き方を変える運動につながるように思います。

どんなに外側が美しく見えたとしても、問題は中身です。柏木哲夫という、以前に淀川キリスト教病院のホスピス病棟の責任を持っておられた方が、こう書いています。

人間が不治の病にかかり、迫って来る死を自覚しなければならなくなった時、この世の地位や名誉や財産は何の役にも立たないことを悟り始める。これまでに頼りにしてきたものには、すがることができなくなるというのが死の現実である。人は、地位や名誉や教養という衣を脱がされて、裸のまま死と向かい合わなければならない。

さあ、あなたは大丈夫でしょうか。人生の過剰包装になってはいませんか。

聖書のことば どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(新約聖書・ルカの福音書12章15節)