1999年10月に77歳で地上の生涯を終えられたクリスチャン作家の三浦綾子さんは、キリスト教との出会いについて、次のように語っています。
私がキリスト信者になった時、友人たちは「へえ~、あの人がクリスチャンになったの?」と、驚いた。なぜ驚いたのか。その第一の理由は、私が大のキリスト教嫌いだったからである。
私には、キリスト信者という者は、妙に堅苦しい人種に思えてならなかった。上品ぶっているようにも見えた。変に優しげな種族とも言えた。それでいて、内心、信者でない者を上から見下しているような、傲慢さがあるように思われた。
それに、日本人が何も外国の神を拝むことはないという気持ちもあって、とにかく、私はキリスト信者になる人たちに反感を持っていた。
友人たちが驚いた第二の理由は、私があまりにも自堕落な人間だったからである。当時の私を、友人たちはヴァンプ(妖婦)だと言っていた。美しくもないのに、私には男の友だちが多かった。私は生きることに何の喜びも持たず、いつ死んでもいいと思っている、投げやりで虚無的な人間だった。
およそ私は、上品でもなければ、正直でもない。優しくもなければ、真面目でもない。その私がキリスト信者になったと聞いた時、友人たちが「あの人が!」と、愕然としたのも無理はない。
この私が、どうしてキリストを信じるようになったのか、話は少しさかのぼる。
昭和20年、敗戦を迎えた時、私は旭川のある小学校の教師をしていた。教師をして7年目、23歳だった。私が旧制女学校卒業後、検定試験を受けて小学校教師になったのは、まだ17歳未満の時であった。
自分の口からいうのもおこがましいが、私は生徒に対しては熱心すぎるほど熱心な教師であった。それは、若い者が誰でも持っている熱情の故であっただろう。教壇に倒れるならば本望だと、本気で私は思っていた。
その私が、敗戦を迎えてのショックは大きかった。敗戦によって日本はアメリカ軍に占領された。占領軍の命令は絶対である。その指令により、私たちの使っていた教科書は、至る所、自分たちの手で真っ黒に塗りつぶさなければならなかった。
私も、受け持ちの4年生に墨をすらせ、何ページを開いて何行から何行までを消しなさいと、生徒たちに指示した。生徒たちは言われるままに素直に自分の教科書を筆で塗りつぶす。その姿を見て、教師である私の胸は押しつぶされる思いであった。昨日まで、教科書は手垢もつけないように、生徒たちに大事にさせてきた。その教科書に今、筆で墨を塗る作業をさせねばならない。彼らの姿を見ながら、私は胸にぽっかりと穴があく感じをどうすることもできなかった。
以来私は、何を生徒に教えるべきか分からなくなった。今まで教えてきた日本の方針が正しいのか、アメリカの新方針が正しいのか。どちらも間違っているのか。私には分からなくなった。生徒に何を教えるべきか分からなくなった私は、教師を辞めた。
そして、私は二人の男性と同時に結婚の口約束をするような女に堕落した。どちらか早く結納を持ってきた方と結婚しようと思っていた。一生の一大事である結婚にさえ、こんな投げやりな考え方を持っていたのである。やがてその一人が結納を持ってきた。ちょうどその日、私は貧血を起こして倒れ、間もなく肺結核を発病した。
こうして2年、療養生活に入った私は、虚しさの果てに自殺を図ったこともあった。その私にキリストを伝えてくれたのは、幼馴染みの前川正であった。彼もまた、肺を病む医学生だった。
だが、いつまでたっても真剣に生きようとしない私の姿に、彼はある日、旭川の街を一望する丘の上で、私をいさめたその彼に応じないふてくされた私を見て、彼はいきなり傍らにあった小石で自分の足を打った。驚いて止める私に、「綾ちゃん、あなたが真剣に生きることを、僕は今まで神に祈ってきた。しかし、僕にはあなたを救うことはできない。その不甲斐ない自分を、僕は責めているんです。」
彼の目にあふれる涙を見た時、私は、全身を彼の愛がつらぬくのを感じた。それは、男が女を愛する愛ではなく、人格が人格を愛する愛であった。
以来、私の姿勢は変わった。騙されたと思って、彼の信ずるキリストを求めてみよう。私は、彼の背後にある何か輝く清いものを求めて生き始めた。この世には信ずべき何ものもないと、キリスト信者を侮蔑し、嫌っていた私も、彼の真実な生き方に打たれたのである。その後、幾多の曲折はあったが、私はついに、病床で洗礼を受けた。忘れもしない昭和27年7月5日だった。
聖書のことば わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(新約聖書・ヨハネの福音書14章6節)
